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神戸地方裁判所 平成7年(ワ)1220号 判決

原告 A野太郎

〈他1名〉

右両名訴訟代理人弁護士 原田正雄

被告 社会福祉法人B山学園

右代表者理事 C川松夫

右訴訟代理人弁護士 丸山富夫

被告 神戸市

右代表者市長 笹山幸俊

右訴訟代理人弁護士 飯沼信明

主文

一  被告神戸市は、原告らそれぞれに対し、金一九五八万〇七一八円及びこれに対する平成七年九月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用中、原告らと被告神戸市との間に生じたものは被告神戸市の負担とし、原告らと被告社会福祉法人B山学園との間に生じたものは、原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告らそれぞれに対し、二〇六三万七〇九〇円及びこれに対する平成七年四月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

原告らの被告らに対する請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者等

(一) 原告A野太郎(以下「原告太郎」という。)は、A野春子(以下「春子」という。)の父、原告A野花子(以下「原告花子」という。)は母である。

原告花子は、昭和三五年三月一二日生まれの女性で、平成六年一二月一〇日(原告花子満三四歳時)、初めての子どもとして、春子を妊娠三九週目で出産した。

ところが、春子は、平成七年四月一九日正午ころ、生後四か月余りで死亡した。

(二) 被告社会福祉法人B山学園(以下「被告学園」という。)は、児童福祉法第七条所定の乳児院である「D原乳児院」(以下「本件乳児院」という。)を経営している。

(三) 被告神戸市は、子育て支援(緊急・リフレッシュ)事業(以下「本件事業」という。)を実施し、その実際の業務を被告B山学園など外部の施設に委託していた。

(四) 本件事業は、保護者の疾病等により一時的に養育が受けられない児童を乳児院等の施設に一時的に入所させることにより、児童の健全な育成及び保護者の育児の負担の軽減を図ることにより、その家庭の福祉の向上に寄与することを目的とするものであった。

被告神戸市は、本件事業の実施要綱及び実施要領(いずれも平成六年六月一日施行)を定めており、これによれば、右一時的入所の種類は、「デイサービス」と「ショートステイ」に分けられ、「デイサービス」の入所時間は、一か月のうち一〇日を超えない日の午前八時から午後八時までであり、「ショートステイ」の入所期間は、一か月のうち一〇日を超えない期間とされていた。

2  契約関係

(一) 本件事業の実施施設に児童の入院等を希望する保護者は、事前に所定の登録手続を行った上、神戸市長宛の所定の申請書を、児童相談所長、福祉事務所長又は実施施設の長に提出するものとされている。

(二) 被告神戸市は、平成七年四月一日、被告学園との間で、委託期間を平成七年四月一日から平成八年三月三一日までとして、本件事業を実施するための児童の保護を委託する旨の業務委託契約(以下「本件業務委託契約」という。)を締結した。

(三) 原告太郎は、所定の事前登録手続を行った上、平成八年四月一四日、本件乳児院長に対し、保護を委託する児童(乳児)を春子とし、入所の種類を「デイサービス」とし、入所日を同月一九日、二〇日、二一日及び二六日ないし二八日の六日間とし、入所時間を午前一〇時から午後六時までとする申請書を提出した。

原告太郎は、平成八年四月一九日付け本件乳児院長名義の「神戸市在宅乳幼児保護決定通知書」により、本件乳児院において申請通りの「デイサービス」を受けられることになった。

原告花子は、平成八年四月一九日午前九時五〇分ころ、春子を連れて本件乳児院を訪れて本件乳児院に春子を預けた。

(四) 右(三)の手続の履践により、平成八年四月一九日、原告太郎と被告神戸市及び被告学園との間で、春子を同日午前一〇時から午後六時まで、本件乳児院において一時的保護を目的とする保護委託契約(以下「本件契約」という。)が成立したというべきである。

3  春子死亡事故の発生に至る経過

(一) 春子は生まれてから順調に成長し、発熱、下痢、ひきつけ等は一切なく、健康そのもので全く手の掛からない赤ちゃんで、二か月検診においてもなんら異常は指摘されていなかった。

(二) 春子は、平成八年四月一九日(以下、平成七年の月日については年号の記載を省略する。)午前七時半に起き、ミルクを一二〇cc与えたが足りなかったので、四〇cc追加し、それも全て飲み干した。春子は同日午前八時三〇分から約四〇分間眠った。

原告花子は、同日午前九時一〇分ころ、春子を起こし、同日午前九時五〇分ころ、春子を連れて被告学園を訪れ、入院手続をした上、隣接の本件乳児院へ行き、E田松子保健婦(以下「E田保健婦」という。)に春子の今朝の様子や二回目のBCG接種の際、熱があったためこれを取りやめたことなどを報告した。

そして、原告花子自身がその場で春子の検温をしたところ、春子の体温は三七・七度であった(摂氏である。以下も同じ。)が、約五分後に計り直したところ、三七・四度であった。

原告花子は、育児日記に所定の記入をし、E田保健婦に質問用紙や母子手帳等を渡した上、春子を預けて本件乳児院を離れたが、春子は、その間も声を出してよく笑っていた。

(三) 春子が死亡した四月一九日の本件乳児院での経過は、以下のとおりである。

(1) 午前一〇時

春子は笑って機嫌よくしていた。

(2) 午前一〇時過ぎ

E田保健婦は、春子が泣き出したのでたてだっこであやし、さらに、床に降ろして遊ばせようとしたが、春子は泣き止まなかった。

E田保健婦は、A田竹子保母(以下「A田保母」という。)に春子を渡したが、A田保母は、ミルクの時間でもないし、朝、眠っている途中で連れてきたのでまだ寝が足りないと思い、静かになったところで、春子を仰向けにベットに降ろした。

ところが、春子がまた泣いていたので、B野梅子保母(以下「B野保母」という。)が春子をうつぶせに寝かせたが、春子がまだ泣くので仰向けにしたりうつぶせにしたり何回も繰り返した。

(3) 午前一一時ころ

B野保母が春子をうつぶせに寝かせると、春子は静かに眠ったと思われた。その時の春子の体勢は、顔は右の頬を下にして横向きになり、手はバンザイの格好をしていた。

(4) 午前一一時半ころ

A田保母が、ミルクをあげようかと一度、春子の様子を見ると、右(3)と同じ格好で静かに寝ていたので、他の子供に授乳したりあやしたりしていた。

(5) 午後零時ころ

A田保母は、そろそろミルクをあげようと春子を見ると、春子は顔を完全に真下に向けており、左の頬が紫色になるという異常が発見された。

そこでA田保母とE田保健婦はすぐに自働蘇生器をもってきて、救急車が来るまでの約一五分間、ずっと、春子に対して蘇生術を施した。

なお、午前一一時から午前零時ころまでの間、春子の呼吸の確認や肌に触れることはされておらず、春子の様子は目で確認しただけだった。

(四) 春子は、同日正午ころ、本件乳児院から救急車で甲南病院に運ばれたが、病院への搬入時には既に手遅れの状態であり、できる限りの蘇生術が試みられたが死亡した(以下「本件事故」という。)。その後、神戸大学付属病院で解剖されたが、その結果、「屍体血液の暗赤色流動性、胸腔内臓器の溢血点多数出現」という認定がされた。

4  春子の死因

右3の事実経過からすれば、春子の死因は、うつぶせ寝を原因とする窒息死である。

春子は発見時、顔を完全に真下に向けており、当時の寝具、枕の状況、死体解剖の結果からも急性窒息死の主要所見である「屍体血液の暗赤色流動性、胸腔内臓器の溢血点多数出現」が認定されていることからすれば、春子は、鼻孔が塞がれて著しい呼吸困難を惹起していたはずであり、その死因は窒息死であったと考えられる。なお、春子に眼瞼結膜の溢血点がなかったとしても、窒息死の場合必ずこれが現出するというわけではなく、個人差があることは公知であるから、これが欠けることをもって窒息死でないということはできない。

仮に、窒息死と断定しきれないとしても、春子の死因は窒息死に近い原因不詳の急性死である。

5  被告学園の注意義務違反

本件乳児院の担当保母は、乳児を保育する際、その乳児の特質、体力を十分認識し、細心の注意を払って保育することが求められる。特に春子は生後四か月余りの女児で、本件事故当日が本件乳児院での初めての保育日であったのであったこと、本件事故当日朝の体温が三七・七度もあったこと、預けられた後も長時間泣きやまずにいたことからすれば、うつぶせ寝の状態で鼻孔が塞がれたとしても自分の頭を持ち上げたり横にしたりすることが困難な状態であったといわなければならず、担当保母らはそのことを知り得たはずである。

それにもかかわらず、被告学園の履行補助者である担当保母らは、具体的には以下のとおり、その行うべき注意義務違反を怠り、本件事故を発生させたものであり、被告学園は民法四一五条に基づき、後記の損害を賠償する責任を負う。

(一) 事前の注意義務違反

被告学園は、幼い乳児を預かるのであるから、保母と乳児の一対一のお試し保育、慣らし保育をするべきであり、これをしないのであれば、乳児の特性、家庭での保育状況、家庭環境等春子についての正確で十分な情報を把握しておくべきであったにもかかわらず、これを全く怠った。

三七・五度以上熱のある乳児は預からないのが原則であるところ、春子の場合は一回目の検温では体温が三七度七分もあり、二、三分後にもう一度検温しても三七度四分であったのであるから、本件乳児院としては、預かるのを回避すべきであったにもかかわらず、漫然とこれを受け入れた。

(二) 保育上の注意義務違反

(1) 生後四か月余りでの初めて預かる乳児については、頻回かつ慎重細心の観察ができる状態で寝かせるべきであるのにこれを怠り、木枠のガードで中の見えにくく、保育室の一番奥の見えにくい位置に置かれたベッドの上に春子を寝かせていた。

(2) 春子が発熱し、長時間泣きやまず、うつぶせ寝にして呼吸困難を招来した場合に自力で頭を左右に振ったりして危機を回避する能力がないことが明らかであった以上、担当保母らは春子をうつぶせ寝にさせるべきではなかったにもかかわらず、春子をうつぶせ寝にさせてしまった。

(3) 仮に、春子にうつぶせ寝をさせるのであれば、硬い布団かマットを使用し、タオル等を頭の下に敷かない、厚い掛布団は使わないようにすべきところ、担当保母らは、これを怠り、柔らかい布団、タオルを枕にし、やや厚い掛布団を使っていたし、それ以上に、うつぶせ寝をさせたのならば、常時(少なくとも五分おきに)春子を観察し、かつ、春子の顔の間近に行ってよく観察し、安全に呼吸しているかを手のひらで確認してみるべきであったところ、右担当保母らはこれも怠り、観察はせいぜい一〇分から一五分くらいの間隔で、それもほとんど数メートル離れたところからざっと見ていたにすぎず、慎重さや丁寧さが欠落しており、顔を近づけての観察や手のひらを使っての呼吸確認は全くしていなかった。

(三) 救命措置義務違反

春子は、その異常発見時、チアノーゼ状態を示していたのであるから、担当保母らは瞬時に春子の呼吸脈拍を調べ、名前を呼んだり、顔を軽く叩いたりしつつ、春子に覚醒への刺激を与え、即座に口移しの人工呼吸を開始しなければならないところ、担当保母らはこれを怠り、単に春子に自動蘇生器で酸素を送ったにとどまった。

また、自動蘇生器を使用する前に心臓マッサージを毎分八〇回行うこととされ、自動蘇生器を使用し始めたら心臓マッサージをしてはならないとされているのに、担当保母らは事前のマッサージをせずに自動蘇生器を使用し始め、その後自動蘇生器の使用と併行して心臓マッサージを継続したという蘇生法実施上のミスも犯している。

6  被告神戸市の責任(債務不履行)

(一) 被告学園は、被告神戸市の履行補助者であり、その過失につき債務不履行として民法四一五条に基づいて後記の損害の賠償責任を負う。

(二) 監視監督義務違反

被告神戸市は、本件業務委託契約を締結するに際し、被告学園に対し、当該事業を実施する上で、右5の安全保育上の各注意義務を指導する法的義務を負うのであって、特に生後数か月以内の乳幼児の保育上の危険情報を提供し、時間をかけて安全保育確保のため十分指導教育を徹底すべき義務を負うところ、これを怠った。

7  損害

(一) 逸失利益 二〇二七万四一八〇円

春子は、本件事故で死亡することがなければ、就労可能な満一八歳から満六七歳までの四九年間、少なくとも、毎年、一八歳女子の平均給与月額一四万七〇〇〇円の収入を得ることができたはずであるから、同人の生活費及び新ホフマン係数による中間利息を控除して、その逸失利益の総額を算出すれば二〇二七万四一八〇円となる(一四万七〇〇〇円×一二か月×〇・七×一六・四一九)。

(二) 慰謝料 一八五〇万〇〇〇〇円

春子は、本件事故に遭わなければ元気に働き、幸せな家庭生活を送ることもできたはずであるから、春子の本件事故による精神的苦痛を慰藉するための慰藉料は一八五〇万〇〇〇〇円を下らない。

(三) 葬祭費 一〇〇万〇〇〇〇円

春子の葬祭に要した費用のうち、本件事故と相当因果関係に立つ葬祭費の額は、一〇〇万〇〇〇〇円を下らない。

8  相続

原告らは、各二分の一ずつの割合により、春子の有する右損害賠償債権を相続により取得した。

9  弁護士費用 金一五〇万〇〇〇〇円

原告らは原告訴訟代理人弁護士を依頼して訴えを提起せざるを得なかったが、本件事故と相当因果関係に立つ弁護士費用の額は一五〇万〇〇〇〇円を下らない。

10  よって、原告らは、民法四一五条に基づき、被告らに対し、それぞれ二〇六三万七〇九〇円及び春子が死亡した日である平成七年四月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する被告らの認否

1  請求原因1の各事実はいずれも認める。

2  同2(一)ないし(三)の事実は認め、原告太郎と被告神戸市との間で本件契約が成立したことは争わないが、原告太郎と被告学園との間で本件契約が成立したことは否認する。本件契約は、原告太郎と被告神戸市との間で締結されたものである。

3(一)  同3(一)のうち、春子が発熱をしなかったことは否認し、その余は知らない。

(二) 同(二)のうち、原告花子が所定の入所手続及び春子の検温をしたこと並びに春子の体温が原告ら主張のとおりであったことは認めるが、春子がその間声を出してよく笑っていた事実は否認し、その余の事実は知らない。

(三)(1) 同(三)(1)の事実は認める。

(2) 同(2)のうち、春子を床に降ろして遊ばせようとしたが、春子が泣いたこと、A田保母が、春子が静かになったところで、仰向けにベットに降ろしたこと、ところが春子がまた泣いていたので、B野保母が春子をうつぶせに寝かせたことは認め、その余は否認する。

(3) 同(3)のうち、B野保母が、春子をうつぶせに寝かせると、春子は静かに眠ったと思われたこと、その時の春子の体勢が顔は右の頬を下にして横向きになっていたことは認め、その余は否認する。

春子の体勢は、両手の肘を曲げて、手の平を下に向けて両脇に置き、右頬を下にした横向きの体勢であった。

(4) 同(4)(5)の各事実は認める。

(四) 同(四)の事実は認める。

4  同4は否認する。

春子の死因は「乳幼児突然死症候群」(以下「SIDS」という。)であって、被告らの過失と春子の死亡との間の相当因果関係を論じるまでもなく、原告らの請求は理由がない。

厚生省心身障害研究班の定義によれば、SIDSとは「それまでの健康状態および既往歴からその死亡が予測できず、しかも死亡状況及び剖検によってもその原因が不詳である、乳幼児に突然の死をもたらした症候群」である。その診断に際しては剖検に基づいて行うこととされており、SIDSの可能性が考えられる状況として「① それまで健康で、死亡が全く予想されなかったこと、② 窒息と考えられる明らかな異物(おもちゃ、食物など)が発見されないこと(なお、ミルク、吐物などが気道に認められてもそれだけで死に至ることは少ないし、単にうつぶせだけで鼻孔閉鎖による窒息が起こるとは考えにくい。)、③ 犯罪の可能性がないこと」の三点が掲げられている。

なお、屍体血液の暗赤色流動性、胸腔内臓器の溢血点は、急性窒息死だけでなく、内因性急死の三主徴のうちの二つの所見でもあり、窒息死だけに認められる眼瞼結膜の溢血点は、春子の死体検案書に「結膜蒼白、溢血点なし」と記載されているように、存在しなかった。したがって、春子が窒息したことを推測させる証拠はないというべきである。

さらに、鬱血所見は五分という短時間でも出るし、小児科臨床においては体温が三七・七ないし八度あってもあまり気にすることはないとされており、出生後四か月児においてはミルクの標準使用量は一回一八〇ccないし二二〇ccで、一六〇ccは過度に多くはなく、出生後四か月の時点では、危機回避能力が一般的にあるという意見が公表されている。

さらに、「乳児では心停止後五分以内であればほぼ全例に一度は心拍の回復を見る」というのは、救急専門医が救命措置を行うことが前提であり、本件においては救急隊の到着は午後零時一五分で、病院到着が同三五分であって、午前一一時五五分ころSIDSが発生したとしても矛盾は生じない。またSIDSの場合、蘇生に反応しないと指摘する文献もある。

したがって、厚生省の見解によっても本件はSIDSとなる事案であり、到底窒息死ということはできない。SIDSは事故ではなく病気であり、春子の死は不可抗力というべきである。

なお、うつぶせ寝はSIDSの一つの危険因子であって、他に喫煙や人工栄養も危険因子として指摘されているところ、春子には人工栄養が使用されていたし、SIDSの場合、死亡前に苦しんだり暴れたりといった前兆がない場合もある。そして、厚生省がうつぶせ寝の中止勧告を出したのは平成一〇年六月一日であり、本件当時の段階では、必ずしも十分な見解は発表されていなかった。

5  同5の主張は争う。

(一) 春子の死因がSIDSである場合、法律的には、死因を特定できない以上注意義務を特定できないから、被告らが損害賠償責任を負うことはない。

また、乳児を預かる場合の一般的な義務と具体的な過失判断において注目すべき義務とは異なるのであり、さらにSIDSの場合、乳児は何の前兆もなく死に至ってしまうのであって、本件においては被告学園の担当保母らに春子のSIDSによる死亡について、具体的な結果予見可能性と結果回避可能性は全くなかった。

(二) 保育上の注意義務違反について

(1) 本件事故が発生したほふく室は、立てば全体が見渡せる、それほど大きくない部屋であり、保母は見にくい位置にいるときには背伸びする等して十分に乳児の状況を観察していた。実際に経験を積んだ保母は、ほふく室全体を常に見渡しているし、自然と目が行くようになっているから、子供達に何かおかしいことがあればすぐ分かるはずである。

(2) 春子が寝かされていたのは、硬い敷き布団であり、その下は畳で、まくらは使用しておらず、薄いタオルを使用していたにすぎないから、呼吸を困難にする恐れは全くなかった。

(3) 被告学園においては、預かった乳児は、常時、保母のいる部屋に寝かせており、保母が常に観察していた。

乳児にマンツーマンで常時傍にいて呼吸を手の平で確認し続けろというのは乳児院の体制としては不可能であり、家庭においてであっても不可能であるから、そこまでの注意義務はないというべきである。

(三) 救命措置義務違反について

被告学園が用いた人工呼吸器は自発呼吸のできない人に対して吸気と呼気を自動的に繰り返して人工呼吸を行える酸素自動蘇生器であり、被告学園の担当保母らは、これを用いて春子の蘇生のために最大限の努力をしたのであるから、被告学園の担当保母らに救命措置義務違反はない。

6  同7ないし9の事実は知らない。

第三証拠《省略》

理由

第一契約関係の当事者について

一  請求原因1の事実、同2(一)ないし(三)、同3(四)の事実はいずれも当事者間に争いがなく、原告太郎と被告神戸市との間で本件契約が成立したことは当事者間に争いがない。

二  原告らは、原告太郎と被告学園との間にも本件契約が成立したと主張するところ、確かに、《証拠省略》によれば、原告太郎宛の神戸市在宅乳幼児保護決定通知書が本件乳児院長名で発行されている。

しかしながら、《証拠省略》によれば、本件事故当日における本件乳児院による春子の保育は、本件事業の一環として行われたものであり、被告学園は、被告神戸市との間の業務委託契約が存在するため、本件事業の実施施設である本件乳児院において春子を預かるに至った事実が認められる。

そうだとすれば、被告学園は、被告神戸市が本件契約上の債務を履行するための補助者であったと認めるのが相当であり、原告らと被告学園との間で、春子についての保護委託契約が成立したと認めることはできない。

したがって、原告らの被告学園に対する本件請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

三  もっとも、被告学園の被用者である担当保母ら(E田保健婦、A田保母、B野保母)は、本件事故当日の春子の保育に関しては、被告神戸市の履行補助者として稼働していたと認められるから、担当保母らに保育上の注意義務違反があった場合には、被告神戸市は、春子に対し、債務不履行責任を負うものである。

四  ところで、本件契約により、被告神戸市は、預かった春子に対し、社会通念上期待される水準の保育を行う債務を負担するのであるが、その債務の履行の相手方が誰か(したがって、債務不履行によって発生した人身事故に関する損害賠償債権を取得するのは誰か)という問題があるが、この点は、医療行為を目的とする診療契約と同様の考え方がとられるべきである。すなわち、本件契約は、春子に債権者の地位を付与する三者のための契約であるとの意味を含むものであり、ただ、自ら有効な受益の意思表示をすることはできない春子については、受益の意思表示をまたずに当然に契約上の権利を取得する旨の合意がされているものと解するのが相当である。

五  そこで、以下においては、本件事故に関する被告神戸市の債務不履行責任の有無、本件事故によって生じた損害について検討する。

第二SIDS及び乳幼児の窒息死について

一  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

1  SIDSの定義

(一) 乳幼児突然死症候群(SIDS)とは、ある特定の症状を呈する疾患の病名や診断名ではなく、外傷や病変が認められない乳幼児について、その死因が明らかにできない場合に、法医学者や監察医によって用いられてきた「剖検診断名」である。

(二) SIDSは、国際的には「一歳未満の乳幼児の突然死のうち、その死亡が生前の病歴や健康状態から予知できず、死亡時の状況や精密な解剖検査によっても死亡の原因が説明できないもの」と定義されている。

(三) わが国においては、どのような乳幼児の死亡をSIDSと診断してよいかについて、厚生省の昭和五八年度「SIDSに関する研究報告書」によれば、SIDSとは「これまでの健康状態及び既往歴からは、全く予測できず、しかも剖検によってもその原因が不詳である、乳幼児に突然の死をもたらした症候群を狭義のSIDSとし、剖検のないものを広義のSIDSとする」とされ。その後、医学界では、SIDSとは、「それまでの健康状態及び既往歴からその発症が予想できず、しかも死亡状況及び剖検によってもその原因が不詳である、乳幼児に突然の死をもたらした症候群」と一般に定義されている。

(四) 平成七年度厚生省心身障害研究「乳幼児突然死症候群の診断システムの確立に関する検討」によれば、「SIDSの可能性が考えられる状況」として、① それまで健康で、死亡が全く予測されなかった、② 窒息と考えられる明らかな異物(おもちゃ、食物など)が発見されない(ミルク、吐物などが気道に認められてもそれだけで死に至ることは少ないし、単にうつぶせというだけで鼻孔閉鎖による窒息が起こることは考えにくい。)、③ 犯罪の可能性がないということとされている。

また、「死亡状況及び既往歴」として、① 睡眠中に発症することが殆どで、② 死亡前に軽い呼吸器か消化器症状を呈することがあり、③ 遺伝性は明らかではないとされている。

(五) SIDSと死亡診断される場合(剖検において、直接の死因となるような外傷・病変・気道閉塞が認められないことが当然の前提である。)にも、暗赤色流動血液、諸臓器のうっ血、粘漿膜下の溢血点といった窒息死と共通した所見で得られることがあるとされており、窒息死と死亡診断すべきかSIDSと死亡診断すべきかを剖検だけで判断することは、しばしば極めて困難である。

(六) 平成一一年三月、公的補助によって行われた研究成果が「乳幼児突然死症候群(SIDS)診断の法医病理学的原則に関する提言」として公表されている。

右は、「乳幼児死亡例では、死亡時の状況がわかりにくい等の特殊性はあるにしても、安易にSIDSと診断され、外因死の隠れミノとして利用されている例も少なくなく、乳幼児死亡例においても、医学的に十分検査、検討され、客観的に死因が診断されるべきであることは言うまでもない」としたうえで、SIDSと診断するためには、① 必ず精度の高い解剖が実施されていること、② 死亡児に関する十分な情報が収集されていること、③ 外因死や虐待の可能性が完全に否定されていることが必要であるとのSIDS診断のための原則を提言しており、窒息死等の外因死の可能性が完全に否定されない死因はSIDSではなく、「不詳の死」とすべきであり、うつぶせ死亡は窒息死の可能性を内包しているので、安易にSIDSと診断してはならないとしている。

2  SIDSの危険因子

SIDSとされる死亡が起きやすいのは、生後四ないし五か月であるとされ、その危険因子に関して、① 低出生体重児にやや多い、② 男児にやや多い、③ 多胎児(双子、三つ子、四つ子など)にやや多い、④ 妊娠中に母親が喫煙していた、父親や母親が子どもの周囲で喫煙するなどの場合にやや多く、また、母親が低年齢出産(二〇歳未満)であるとの傾向もある、⑤ 睡眠中に起こることが殆どである、といった説明がされている。

3  SIDSの原因

SIDSの原因としては、仮説としては一〇〇以上のものがあるが、その中でも慢性低酸素症の理論が長く重視され、これと結びつけて睡眠中の無呼吸というものがこの病気の中心として研究されてきた。

もっとも最近は、睡眠中に無呼吸になるということよりも、むしろ何故そこから回復しないのかということの方が重要視されている。すなわち、乳幼児であると成人であるとを問わず、睡眠時には呼吸機能・自律神経機能が低下するが、大人の場合には血液ガスの変化により呼吸中枢が刺激されて覚醒反応が起こる。これに対し、乳幼児(特に六か月以内の乳児)は呼吸中枢そのものがまだ未熟であるうえ、脳幹部に微細な異常が起こっておれば、覚醒反応がうまく働かずに無呼吸状態が続き、高度の低酸素血症になっていて死亡に至るのではないかと考えられている。

もっとも、SIDSの機序として確立された、あるいは、多くの支持を得た医学的説明というものは未だに存在しない。

4  乳児の窒息死

乳児はもっぱら鼻孔で呼吸しており、口で呼吸することはできない。乳児の発達状態が、寝ている状態で自ら左右に顔の向きが変えることができるまでに達していない場合、寝具などで鼻孔が圧迫された場合に自力でその危機を脱出することが困難であることから、窒息する可能性が高い。

また、乳児は、単位体重当たりの酸素需要が成人の二・五倍も高く、特に脳の酸素消費量の極めて多いため、ふとん内の空気を繰り返し呼吸すると容易に窒息死に誘導され、厚いふとんに顔面が埋没するような就眠状態は窒息死の危険性が高いとされている。

5  うつぶせ寝と窒息死

乳児をうつぶせ寝で睡眠させる習慣は、米国では古くからあったが、わが国にはなかった。

ところが、昭和五〇年代後半から、発達促進効果や良眠効果が宣伝され、うつぶせ寝の習慣がわが国にも広められることになったが、その後、うつぶせ寝とSIDSの関係が注目されるようになり、平成になってからは、欧米では、かえってうつぶせ寝を危険視する見解が有力にとなえられるようになった。

わが国でも、近年、うつぶせ寝が窒息死を招きやすいとの研究報告がされることになり、うつぶせ寝を無条件に良いとする考え方の危険性が有力に指摘されるに至っている。

二  SIDSとうつぶせ寝との関係について

1  右認定のとおりであって、SIDSは、治療法の選択を目的としてある種の症状に着目して概念付けられた診断名ではなく、原因不明の乳幼児の内因死の総称というべきものである。

2  SIDSが原因不明の乳幼児の内因死の総称であるとすれば、うつぶせ寝がSIDSの原因となると考える科学的根拠は何もないのであり、SIDSはあおむけ寝で睡眠する乳幼児にも発生して何ら不思議なことではないということになる。

3  ところで、前掲証拠に係る文献中には、うつぶせ寝にはSIDSを招くおそれがあるとの記載も散見されるので、この点について検討する。

右認定のとおり、剖検によっても、なお、外因死かどうかを客観的に正確に鑑別することがしばしば困難であるため、SIDS診断の実際においては、外傷・病変がない乳幼児の窒息死が誤ってSIDSと判断されることは、おそらくかなりの割合で避けられないものと考えられる。

そして、あおむけ寝と比較してうつぶせ寝が窒息死をもたらす危険が高いことからすれば、うつぶせ寝の際に発生した外因性の窒息死がしばしばSIDSと誤分類され、その結果、うつぶせ寝とSIDSとの関係が疑われる事態もありえることのように思われる。

したがって、うつぶせ寝が、真実、SIDSを招くおそれがあるのか、右のような誤分類が積み重なって、うつぶせ寝がSIDSを招き易いとの「見かけ上の」関連性が存在するだけなのかは、何とも言い難いところである。

少なくとも、本件における証拠関係からは、うつぶせ寝がSIDSという内因死を招きやすいとの関係が医学的に合理的な事態であると考えることができない。

4  右のとおりであるから、本件においては、春子はうつぶせ寝の状態で異常が発見されているが、うつぶせ寝であったことが、春子の死因がSIDSであったことの一定の有力な要因とすることはできない。

第三被告神戸市の責任について

一  本件事故に至る経緯について

争いのない請求原因3(四)の事実に、《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

1  春子の出生時(平成六年一二月一〇日生まれ)の体重は三〇二四グラムで、身長四八センチメートルであり、その妊娠及び出産に際して特に異常はなかった。

春子は、出生後の病院での検診でも特段の異常はないとされており、過去に「ひきつけ」「けいれん」などの発作を起こしたこともなかった。

2  春子は、四月一九日の本件事故当日は、午前七時半ころにめざめ、原告花子が与えたミルク約一六〇ccを飲み、午前八時三〇分ころから約四〇分間眠り、午前九時五五分ころ、上着と肌着を着せられ、原告花子によって本件乳児院に春子は連れて行かれた。

原告花子は、春子の体温を電子体温計で検温したところ、三七・七度であったため、発熱のため本件乳児院に預けることもできないのではないかと思い、E田保健婦に「今日はお預けするのは無理でしょうか。」と尋ねた。

E田保健婦は、春子が厚着であったことを考慮して再度の検温を促し、原告花子において上着を一枚脱がせて再度検温したところ、春子の体温が三七・四度だったため、春子を日中預かることにした。

3  本件乳児院の一階の間取りは別紙「一階平面図」のとおりであり、ほふく室は、同図面の右下・南東角の部屋であり、ほふく室内のベットの配置状況は、同図面に赤字で記載されているとおりであった。

本件事故当日のほふく室の担当は、A田保母及びB野保母であり、本件事故当時、ほふく室にいた乳児は、春子、六か月の女児一人、四か月の男児二人、七か月の男児一人の合計五人であり、デイケアの乳児は、春子を含めて二人であり、他の三人は本件乳児院に入所している乳児であった。

4  ほふく室に置かれているベットは、畳のベッドであり、その上に厚さ三センチメートル程度の硬い敷ふとんを敷き、さらにその上におねしょマット及びシーツを敷いたものであり、枕は、木綿のタオル(周りをテープで補強したもの)を広げたものであった。

右ベットの周囲の柵の上端の床からの高さは約九〇センチメートルぐらいで、右ベットの中の状況は立って見ないとよく見えない状態であった。

5  E田保健婦は、原告花子から預かった春子を、本件乳児院のほふく室に連れて行き、春子をほふく室の敷物の上に下ろしたが、春子が泣いたので、膝の上で縦抱きにしてやると、春子は、両足をE田の膝の上でぴょんぴょんして機嫌がよくなった。そこで、再び春子を敷物の上に下ろすとまた泣き出したので、E田保健婦は春子をA田保母に任せてほふく室に隣接する医務室に戻った。

A田保母は、春子を抱き上げ、あおむけにしてベットに入れたが泣いていた。そこで、B野保母が春子をベッドから抱き上げたところ、春子の顎の下が荒れていたので、E田保健婦に来てもらい消毒してガーゼを当ててもらった。

6  B野保母は、午前一〇時四〇分ころ、春子の目がとろんとしてきたので、ベットにあおむけに寝かせて毛布を掛けたが、春子が泣き出し、その後も春子が泣きやまないので抱き上げてあやした。

春子は、抱き上げると泣きやんだが、再びあおむけにして寝かせたところ、毛布を蹴って再び泣き出したので、B野保母は、春子をうつぶせにして顔を南(敷物の方)に向かせて寝かせ、背中を軽く叩いていると、春子は、うとうとし始め、そのまま眠った。

7  午前一一時ころ、A田保母が春子の様子をベットの南側(別紙「確認位置図」⑪の位置)から確認すると、春子が、うつぶせで顔を南に向けて入眠していたので、デイケアー用紙にその旨記入した。

8  午前一一時五分ころ、E田保健婦は、B野保母から、他の乳児のおしりがちょっと赤いので診て欲しいといわれ、排泄ベットのところにいったが、その際、排泄ベットのところからと、ほふく室の入口から、春子をちらっと見たが、春子に特段の異常はみられなかった。

9  午前一一時一〇分ころ、B野保母が、他の乳児を抱いておしめを取りに行く際に春子の様子を確認すると、春子は顔を南に向けて眠っている様子だった。また、その一〇分後にB野保母がほふく室内で春子の様子を見た際も、春子は同様に眠っていた。

10  午前一一時二五分ころ、A田保母が、別紙「確認位置図」の赤矢印のように歩きながら、春子達の様子を確認すると、春子はうつぶせ寝で顔を南に向けて眠っていた。

11  午前一一時三五分ころ、A田保母が、他の乳児のおむつを排泄ベットのところ(別紙「確認位置図」の「11:35」と記載の位置)で交換している際、春子達がうつぶせ寝で顔を南に向けている眠っている様子だったのを確認した。

12  午前一一時四〇分ころ、B野保母は、ほふく室の敷物の敷いてあるところから、春子がうつぶせ寝で顔を南に向けて眠っている様子だったのを確認した。

13  午前一一時五〇分ころ、A田保母は、他の乳児のおむつを交換した際、排泄ベットの横にある沐浴槽から(別紙「確認位置図」の「11:50」と記載の位置)、春子の様子を確認したところ、A田保母には、春子は静かに眠っているように見えた。

14  午前一一時五五分ころ、A田保母は、本件乳児院の調乳室から、春子の消毒した哺乳ビンを持ち帰り、別紙「確認位置図」の赤矢印のように歩いて、ベットの間を通りながら、ほふく室を見渡したが、特に春子に異常な様子があるとは気付かず、ほふく室南側部分(別紙「確認位置図」の「M」と記載の位置)でミルクを作った。

15  午後〇時ころに、A田保母が、春子にミルクをあげようと思って、別紙「確認位置図」の青矢印のように歩きながら、春子のベットに起こしに行くと、春子が顔を真下に向けていたので、慌てて、顔を南側に向けると顔全体が紫色に鬱血している異常な状態となっているのに驚き、「E田先生、チアノーゼ」などと声を発して医務室に春子を連れて行った。なお、チアノーゼとは唇のような粘膜面が紫色になる場合を指すのであって、春子の右状態はチアノーゼと呼ばれる状態ではなく、また、顔面が紫色に鬱血する場合には、鼻孔閉塞による呼気障害(肺の空気を吐くことができない。)の可能性が最も高い。

右異常発見時、春子は、顔面を真下に向けて顔を木綿タオル製の枕に押しつけているという異常な体勢であり、既に心停止に至っていて脈はなかったが、顔あるいは鼻が膨れているといったことはなく、タオルやシーツが濡れていたり、吐物で汚れていたといったこともなかった。

16  E田保健婦は、すぐに医務室にふとんを持ってきて、その上に、春子を寝かせ、A田保母が気道を確保し、E田保健婦が救急隊員が来るまで、B野保母が持ってきた自動蘇生装置を使用して人工蘇生と心臓マッサージを同時にした(なお、本件乳児院では月一回の割合で自動蘇生装置による訓練を行っていた。)。

17  午後〇時一五分ころに救急車が到着し、救急隊員が人工呼吸や吸引を行い、E田保健婦らもこれを手伝った。

春子は、右救急車で甲南病院に運ばれ、午後〇時三〇分、同病院到着し、同病院の医師から蘇生術を施されたが、既に手遅れの状態で、午後〇時五五分、春子の死亡が確認された。

春子は、乳児では心停止後一五分以内であれば、ほぼ全例で一度は心拍の回復をみるとされているが、春子については、異常発見時から一度も蘇生することがなく、平成六年一二月一〇日午後〇時ころ本件乳児院で死亡したものと診断された。

18  その後、春子の遺体は、神戸大学付属病院に運ばれ、兵庫県保険環境部医務課監察医の菱田繁医師(以下「菱田医師」という。)によって解剖された。

右剖検における所見は、外表には明らかな損傷等はなく、心臓内血液は暗赤色流動性で、心臓表面には溢血点が認められたが、心臓自体の器質的な異常は全くなく、胸腺被膜下及び左右の肺に多数の、左右の腎臓に少しの溢血点があり、胃及び一二指腸内に少量の乳白色泥状物質の存在が認められたというものであり、春子の死亡原因となるような病変に関する所見は認められなかった。

心臓内血液の暗赤色流動性と胸腔内の複数の臓器に溢血点が多数みられるといういわゆることは、窒息死の場合の三主徴のうちの二つが認められるということである。窒息死の三主徴のうち、右剖検で認められなかったのは眼瞼結膜の溢血点であるが、この所見がないことは、窒息死であることを否定することにはならない。

二  春子の死因について

1  右に認定のとおり、午後〇時ころの異常発見時において、春子の顔面全体が紫色になる程度の明瞭な鬱血がみられたこと、異常発見時から相当の長時間、保母ら、救命救急士及び医師による蘇生が試みられたが春子は一度も蘇生していないこと、剖検の結果、春子には心臓内血液の暗赤色流動性と胸腔内臓器に溢血点が多数みられるという窒息死の三主徴のうちの二つの所見が得られたことからすれば、春子は、右異常発見時において、かなりの時間継続する低酸素状態にあり、そのため心停止に至っていたことが明らかである。

2  春子については、右低酸素状態を惹き起こすような心肺の病変・異常が、剖検によっても得られていないから、右低酸素状態は、何らかの原因で肺でのガス交換が阻害されたためであると考えるほかなく、ガス交換が阻害された起序としては、鼻孔や気道が閉塞するとの外因によって自発呼吸が困難となり右低酸素状態に至ったか、あるいは、外因によらないで自ら自発呼吸を停止して右低酸素状態に至ったかのいずれかとしか考えられないところである。そして、前者であれば、春子の死亡は外因死(窒息死)であり、後者であれば、春子の死亡は内因死(SIDS)であるということになる。

3  右認定の剖検の所見は、そのいずれであるかを物語るものではないが、一方で、外因なしに自発呼吸を停止したうえ長時間これを回復しないという病態が発生することがあるのかという点、発生するとしてどの程度の頻度でそのような病態が発現するのかという点、そのような病態が発現する起序に関して合理的な医学的説明を加えることができるのかという点が今一つ明らかではないのであり(前掲証拠に係る医学文献からすれば、右の点は現在の医学的学術研究によっても必ずしも明らかにはされていないことが窺えるところである。)、他方で、午後〇時ころの異常発見時における春子の体勢が、顔面を真下に向けて顔を木綿タオル製の枕に押しつけるという異常なものであり、顔面鬱血の状態からみて呼気障害の可能性が最も高いというのであって、本件においては、春子の死亡について、内因死の可能性と外因死の可能性が甲乙付け難いとは到底いえず、外因死の可能性の方が格段に高い状況にあったといわなければならない。

したがって、本件においては、春子の死亡原因としては、特段の証拠のない限り、春子の死亡は、鼻孔圧迫による窒息死、すなわち外因死であると認めなければならない。

4  被告らは、春子の死因はSIDSであると主張しているところ、菱田医師作成の春子の死体検案書(甲第四号証)には、春子の死因がSIDSと推定されるとの記載があり、菱田医師が右の死亡診断をした根拠を示した甲第二六号証の回答書には、菱田医師が、春子の死因について外因死の可能性を否定した理由として、「寝具等による鼻口部閉塞による窒息の可能性については、死亡時の状況や乳児の成長発達度を考慮すれば否定される。」「特にうつ伏せによる窒息の可能性については、一般的な生後の乳児の発育と運動能力から判断すると、例えば生後3カ月ではうつ伏せで頭と胸を自分の腕で支えて起こすことができ、生後4カ月では垂直位でも自分の頭を上げ、首を自由に回すことができる……等の乳児期早期の運動機能の発達を考慮すれば、本件の直接死因を窒息死とは判断し難いと考える」との理由が記載されている。

右回答書の記載の字面だけからすれば、菱田医師は、「窒息死と判断し難いからSIDSであると診断した」のではないかとの疑いがあり、SIDS診断に対する慎重さを欠いている疑いがあるが、その点をおくとしても、なお、右回答書には、次のような疑問がある。

まず、右回答書には、春子の死亡時の体勢や寝具の状況に関する菱田医師の認識が記載されておらず、死体検案書(甲第四号証)作成時における菱田医師がその程度正確に事実経過を認識していたのかが疑問である。

次に、右回答書の記載は、生後四か月余りの乳児は、睡眠中息苦しくなれば、反射的に自力で危機回避の動作を行うことができるはずだとの知見を前提としているが、そのような知見が一般的に支持されているものかどうか疑問である(少なくとも、日本児童安全学会編集の《証拠省略》中の「生後4カ月ころまでは、自分で首が動かせない」との記載とは矛盾していると思われる。)。

したがって、甲第四号証及び第二六号証をもって、春子の死亡が鼻孔圧迫による窒息死(すなわち外因死)であるとの認定に合理的な疑いを投げかける特段の証拠とすることはできず、春子の死因がSIDSであるとする被告らの主張を容れることはできない。

三  被告神戸市の責任(被告学園の担当保母らの注意義務違反)について

1  《証拠省略》によれば、乳児保育に関する文献には以下のとおりの記事が掲載されていることが認められる。

(一) マタニティ平成二年一月号に掲載された杏林大学医学部法医学教室佐藤喜宣教授の「うつぶせ寝の流行に法医学の立場から警告」と題する記事においては、死因不明とされ同大学での剖検依頼がされた乳幼児二五例の剖検精査の結果一五例が「窒息死」であり、窒息死一五例のうち一一例が「吐物吸引による窒息」であったが、その一一例全てがうつぶせ寝であり、しかも、その一一例のうち三例はうつぶせ寝を推奨する産院で起きたものであったとの報告があり、うつぶせ寝では仰向けの場合よりも赤ちゃんの様子の変化に気付きにくく、もし、うつぶせ寝にするならば、悲しい事故が起こらないように赤ちゃんから目を離さないことが必要であるとの注意喚起がされている。

同教授は、NS平成三年一〇月号においても、同様に、うつぶせ寝と吐物吸引による窒息とは関係があるのではないかという論文を掲載している。

(二) ピー・アンド平成五年一二月号には、うつぶせ寝とSIDSとの間に直接の関係はなく、あおむけ寝でもSIDSになる。ただうつぶせ寝にすると赤ちゃんがよく眠り、顔の表情が見えにくいとの指摘があり、右佐藤教授のコメントとして、うつぶせ寝の赤ちゃんは窒息死することがあること、SIDSと窒息死との区別はとても難しく、日本では赤ゃんを解剖することが少ないのでSIDSと診断された中には窒息死も多数含まれている可能性があること、生まれたての赤ちゃんは自分で首を動かすので窒息の心配はないといわれているが、眠ってしまうと鼻をつまんでもわからないこと、睡眠中にそういう状態に陥ると窒息は避けられないこと、うつぶせ寝にする場合にはよく眠っていても赤ちゃんの気配が分かるところにいて、ちょくちょく寝顔を見るように注意することが指摘されている。

(三) 平成六年一二月二〇日初版発行の日本児童安全学会編集「幼稚園・保育所における子どもの安全」と題する冊子には、次のとおりの記載がある。

(1) 首がすわれば寝具での窒息がなくなるとは考えてはならず、首がすわるだけでなく、寝ている状態で自ら左右に顔の向きが変えられるかどうかに配慮する必要がある。

(2) ベットパットにシーツをピンと張っても、吐乳でシーツが汚れるからという理由でシーツの上にタオルを置き、その上にうつぶせ寝にさせたりするが、大変危ない。

(3) 隣室からベットルームをのぞいても十分な観察はできない。産休明け児から四か月児くらいまでの子どもの呼吸を確かめるには少なくとも一・五メートル以内の場所で布団の上下動を数秒かけて見守らねばわからない。

(4) 〇歳児の突然死や窒息事故を防ぐためには、眠っている間の注意が特に必要である。寝返りができても首を十分左右に回せない場合もある。

(5) 乳児の呼吸は鼻呼吸であり、しかも鼻孔が小さく狭いため、鼻閉塞が起きると非常に苦しむ。この時期はまだ口腔を通しての呼吸は難しい。

(6) 無認可保育施設における事例を中心に分析すると、2ないし5か月児の死因の内訳は、うつぶせ三九パーセント、うつぶせ吐乳吸引一〇パーセント、吐乳吸引一一パーセントである。うつぶせ寝は生後四か月ころまでは自分で首が動かせないので避ける。なお風邪気味で体調を崩しているときや動きの悪いときなどは特に注意が必要である。

2  右認定のとおりであるから、被告神戸市の本件契約上の義務の履行として、他人の乳児を預かり保育する本件乳児院の保健婦及び保母としては、本件事故当時、乳児をうつぶせ寝によって睡眠させた場合には、仰向けに寝かしつけた場合と比較して窒息の危険があること、硬いベッドにうつぶせ寝させても、タオルを枕代わりに使用していた場合には窒息の危険があること、したがって、睡眠時の状態の十分な観察が必要であること、乳児が風邪気味であれば特に十分な観察が必要であること、生後四か月程度の乳児の呼吸を確かめるには少なくとも一・五メートル以内の場所でふとんの上下動を数秒かけて見守らねばならないことを認識すべきであり、かつ、うつぶせ寝で睡眠させた乳児について右のような十分な観察を行う注意義務を負っていたものといわなければならない。

3  ところが、本件においては、本件乳児院の保母は、泣いていた春子をあやしつけ、枕代わりに置かれた木綿タオルを頭の位置にした上でうつぶせ寝の状態で春子を睡眠に入らせたにもかかわらず、春子の気配が分かる場所から寝顔をのぞき込んで、その呼吸や気配に異常がないかどうかを頻繁に確認するという観察行動を実行していたとは認められない。

すなわち、前記認定のとおり、春子の顔面全体が紫色に鬱血するとの異常発見時(午後〇時ころ)には既に春子は心停止状態であり、懸命の蘇生の努力の甲斐なく春子が一度も蘇生しなかったというのであり、右異常発見時には、春子が鼻孔閉塞による呼吸困難に陥ってから相当の時間が経過していたものといわざるをえないが、前記認定のところからすれば、担当保母らが確実に春子の安全を確認したといえるのは、遅くとも午前一一時四〇分ころまでというべきであり、それ以降午後〇時ころまでの二〇分間に渡っては、春子の呼吸や気配について十分な観察行動がとられたとは認められない。

4  また、前記認定のところからすれば、担当保母らが十分な観察行動をとっておれば、春子が顔を真下に向けてタオルに顔を埋めるという異常な体勢で睡眠していたことをもっと早期に発見できたはずであり、そうすれば、本件事故によって春子が死亡することもなかったことが明らかである。

5  したがって、被告神戸市の履行補助者である担当保母らは、本件契約によって履行が要求される注意義務を果たしていたとはいえないから、被告神戸市は、右債務不履行が原因で春子が死亡したことにより生じた後記損害を賠償する責任を負う。

第四被告神戸市の債務不履行と相当因果関係に立つ損害について

一  春子の損害

1  逸失利益(一七一四万一四三六円)

春子は、本件事故で死亡することがなければ、就労可能な満一八歳から満六七歳までの四九年間、少なくとも、毎年、一八歳女子の平均給与年額二〇八万八〇〇〇円の収入を得ることができたはずであるから、同人の生活費及び新ホフマン係数による中間利息を控除して、その逸失利益の総額を算出すれば一七一四万一四三六円となる(二〇八万八〇〇〇円×〇・五×一六・四一九)。

2  春子の慰謝料(一八〇〇万円)

春子は、本件事故当日まで特に健康に異常はなく、本件事故に遭わなければ、その後、健やかな人生を送ることができたはずであるから、本件事故による春子が受けた苦痛を慰藉するための慰藉料の額は一八〇〇万〇〇〇〇円を下らない。

二  原告ら固有の損害

次の1及び2は、被告神戸市の春子に対する債務不履行によって必然的に生じた損害(いわゆる間接損害)であり、原告らにおいて被告神戸市に対して賠償を求めることができると解される。

1  葬祭費(合計一〇〇万円)

弁論の全趣旨によれば、原告らが春子の葬儀を執り行ったことが認められるところ、その葬祭に要した費用のうち本件事故と相当因果関係に立つ葬祭費の額は、原告ら各自につき五〇万円(合計一〇〇万円)を下らない。

2  弁護士費用(合計三〇〇万円)

弁論の全趣旨によれば、原告らが原告ら訴訟代理人弁護士に対して本件訴訟の提起及び追行を有償で委任したことが明らかであるところ、本件事故と相当因果関係に立つ弁護士費用の額は、原告ら各自につき一五〇万円(合計三〇〇万円)を下らない。

三  相続

争いのない請求原因1(一)の事実によれば、原告らが、各二分の一ずつの割合により、春子の有する右一に係る損害賠償債権を相続により取得したことが明らかである。

四  右のとおりであるから、原告らは、本件事故に基づく損害の賠償として、それぞれ、被告神戸市に対し一九五七万〇七一八円の支払を求めることができることになる。

もっとも、債務不履行に基づく損害賠償債権は、期限の定めのない債権として発生するから、催告によって遅滞に陥ると解されるところ(民法四一二条三項参照)、その催告としては本件訴状の送達以外には見当たらない。

本件訴状が平成七年九月二二日神戸市に送達された事実は記録上明らかであるから、本件の附帯請求は右翌日以降の部分に限って理由がある。

第五結論

以上の次第で、原告らの本訴請求は、主文一項の限度で理由があるから、これを認容し、その余は棄却し、訴訟費用の負担について、民事訴訟法六一条、六五条一項本文を、仮執行宣言について同法二五九条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 橋詰均 裁判官 永田眞理 鳥飼晃嗣)

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